キャプテンストライダム『ベストロリー』SPECIAL PAGE

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キャプストヒストリーレア写真蔵出し!
永友聖也による全32曲解説DISCOGRAPHY
2004-2010 TV SPOT公開!
1996 春
永友聖也
宇都宮大学編入学。バンドサークル『Band Standうたう会』入部。(以下、うた会)
1997 春
永友聖也
郵便配達のバイトをして貯めたお金で買ったレスポールを盗まれる。1ヶ月後にライブが決まっていたため、急遽町工場で『誤ってペンキの付着した車の部品にヤスリをかけてペンキを落とす仕事』に従事、春休みを費やして約10万円の報酬を得る。この時入手したテレキャスターがその後永友のメインギターとして活躍する事となる。
梅田啓介
うた会入部、永友と出会う。永友、『怖そうな後輩だからあまり関わらない様にしよう』と思う。
1998 春
菊住守代司
うた会入部。永友、『気難しそうな後輩だからあまり関わらない様にしよう』と思う。
永友聖也
環境分析の会社に就職。ダイオキシン分析室に勤務。
1999 春
うた会定例ライブの打ち上げで、永友と梅田により酔った勢いでキャプテンストライダム結成。できちゃった結成。
梅田は『西部警察』というバンド名を提案したがスルーされた。

1ヶ月後、キャプテンストライダム初ライブ。ライブ当日に歌詞が間に合わず、この日演奏された楽曲はほとんどアドリブで唄われた。まだ守代司は加入しておらず、新入生の義務として最前列でヘドバンしていた。
『キャプテンストライダム結成時はまだメンバーではなかった為、先輩が新しいバンドを組んだのだなぁ的な印象でそれ以上でもそれ以下でもない感じでした。まさか加入することになるとは全く想像してなかったな』(守代司談)
夏
永友聖也
『RISING SUN ROCK FESTIVAL』を観に行く。苫小牧港へ向かうフェリーのデッキを散歩しながら月を見た時にふと曲のイメージが浮かぶが、録音機器を持っていなかったため公衆電話から自宅の留守電に鼻歌を吹き込む。この曲が後の『舟』である。
秋
永友のダイオキシン分析業務が多忙を極め、疲労困憊して実験室の床のモップがけをしている最中トランス状態に入る。モップがけの単調な動作がいつしかディスコの四つ打ちのリズムとシンクロし、いつしかリズムに合わせて即興の唄を絶叫。『マウンテン・ア・ゴーゴー』の誕生である。
2000 春
初代ドラマー脱退により活動休止。うた会部室にて活動休止ライブ。活動休止記念の新曲として『ねずみのブルース』が披露された。その後、2代目ドラマーとしていつの間にか守代司加入。この辺のいきさつに関してはメンバーもはっきりと覚えていない。秋頃には居た。はず。『細かい事はあんまし覚えてなくて、何となく毎週練習に参加しているうちにいつのまにやらバンドの一員になっていた』(守代司談)
2001 夏
初の自主制作盤『はたらくくるま/フェイドアウト』発表。
ジャケットは梅田が当時通っていたハローワーク主催のパソコン教室の卒業制作としてデザインされた。
冬
永友聖也
気がつけばダイオキシン分析室で一番のベテラン研究員に。会社から『環境計量士』の資格取得のために3ヶ月の研修を命じられるもバンド活動に専念するためにこれを拒否。勢い余って辞表を叩き付ける。
菊住守代司・・・留年決定。2年連続の留年を食い止めるためにいつになく勉強を頑張る。
2002 冬
永友聖也
気分転換のために引っ越し。
節分
自主制作盤『ノーテンフラワー』発表。『マウンテン・ア・ゴーゴー』の最終的な歌詞は、スタジオのロビーで唄入れの直前に書かれた。
夏
某楽器店主催のコンテストに参加。北関東ブロック準グランプリという微妙な結果に。守代司は、その時の副賞のパ○コの商品券を今でも使わずに持っている。
秋
某楽器店主催のコンテストに参加。北関東ブロック準グランプリという微妙な結果に。守代司は、その時の副賞のパ○コの商品券を今でも使わずに持っている。

永友聖也
愛用のギターアンプ『ORANGE』を盗まれる。半泣きで捜索した結果、中古楽器店の店頭に陳列されているのを自力で発見。
無事手元に取り戻す。
2003 正月
NHKラジオ特番にて『マウンテン・ア・ゴーゴー』のデモテープが流れる。メンバー全員永友宅に集まり、正座して聴いた。
夏
デビューシングル『マウンテン・ア・ゴーゴー』レコーディング前日に、守代司、交通事故に遭う。『ありゃびっくりした。それでも実際のレコーディングではなんとかなるもんですね』(守代司談)
宇都宮から東京へ通いレコーディングを行い、ファーストアルバム『ブッコロリー』制作。
2004 春
メンバー3人揃って上京。
永友聖也
早速スランプに。
梅田啓介
早速呑み友達が増える。
菊住守代司
変わらずマイペース。
初夏
『このままじゃいかん!』と練習スタジオ近くの焼き鳥屋にてメンバー決起集会。3時間に渡り激論を闘わせバンドに対する熱い気持ちを取り戻す。その直後に書かれた曲が『流星オールナイト』である。
2005 春
渋谷クアトロでのワンマンライブ当日の朝、突然完成した形でメロディーと歌詞が浮かんでくる。曲をノートに書きとめ、アンコール時に弾き語りで披露。この曲は『夏のカケラ』と名付けられた。
夏
守代司の夢であった野外ロックフェスに初出演。『所謂フェスに出られたのがとにかく嬉しかった。でもライブは楽しかったのだけれど、レコーディングでのアレンジやら演奏やらが全然上手くいかなくてしんどくて気が重かった。大した苦労をせずにプロになったもんだから、今思うとこの辺がプロの壁みたいなものだったのかもしれない。音楽以外の記憶はほとんどないかも』(守代司談)
そうだったのか、おい。
2006 春
永友聖也
気分転換のために引っ越し。
夏
バンドの兄貴的存在である久保田光太郎氏と共に精力的にライブ、及びレコーディングを行う。『バンドの足腰が強くなり、自信がついた』(梅田談)『相変わらずライブは楽しかったのだけれど制作がしんどかった。今だから言えるが、バンド辞めようかなとも思っていたし』(守代司談)
そうだったのか、おい。

しかし、熊本で守代司メインのラジオ『キャプテンストライダムのMA・HA・NA』が始まり、モチベーション上がる。また、この年グレートマエカワ氏、ウエノコウジ氏らによりベース呑み会が発足。梅田、グレート派とウエノ派の間で揺れる想い。
2007 春
宅録によるデモ作り開始。守代司がエンジニアを務める。
夏
ニューヨークレコーディングに先駆け、大井町の居酒屋でメンバー決起集会。『せっかくN.Y.でやるんだから日本人にしかできないロックをやろうぜ!』と盛り上がる。その勢いもそのままに作られたのが『人間ナニモノ!?』である。
秋
Steve JordanプロデュースによるN.Y.レコーディング敢行。
梅田、永友、時差ボケのため演奏中に眠る。守代司、変わらずマイペース。また、梅田、現地オフの日に同性愛者にナンパされる。慣れない英語で簡単に『イエス』とか言っちゃ危険だと学ぶ。レコーディング最終日、感極まった永友はSteveに抱きつき『Steve! I Love You!!』と愛の告白。Steveの返事は『Me too』だった。
『N.Y.レコーディングでの経験で、今まで自分が練習したり本で読んだり人に聞いたり習ったりと経験してきた事がひとつにつながった。演奏する事に悩まなくなって、ここからレコーディングが楽しくなった。個人的には実り多き年でした』(守代司談)
よかったな、おい。
2008 冬
梅田の地元秋田で初のライブ。ラジオ出演時、高校の同級生のタレコミにより梅田の過去の悪行が暴露される。
春
永友聖也
気分転換のために引っ越し。ベランダ菜園にハマる。この年の収穫高はきゅうり約30本。ゴーヤ5本。
『この年の”明日に向かって踊れ!”ツアーは、1番充実感があって記憶に残っているツアー』(守代司談)
2009 冬
永友、着物にハマる。
春
シングル『ブギーナイト・フィーバー』で、初のメンバー共作による作詞。”大安おばけナイター”3週連続開催。2週目ゲストはフラワーカンバニーズ。梅田、グレートマエカワ氏から『グレート派か、ウエノ派か、はっきりしろ』とステージ上で問い詰められる。
秋
永友、念願のサーフィンを始める。
2010 節分
キャプテンストライダム活動休止宣言。
3人それぞれの道を歩き始める。

永友聖也
気分転換のために引っ越し。ソロ名義による弾き語りライブをスタート。
梅田啓介
呑み仲間更に増える。気分はすっかり江戸っ子。
菊住守代司
相変わらずマイペース。ドラム道に精進。
いつか再び、3人の歩む道が交わる日が来るだろう。キャプテンストライダムは、まだ旅の途中である。